
われわれは、徳というものを、いまいちど考察にのぼさなくてはならぬ。
勝義の徳(アレテー・キュリア)に対する生来的な徳(アレテー・フュシケー)の関係がすなわちそれである。
われわれは生れながらにして、たとえば正しくあるとか節制的であるとか勇敢であるとか等々の資質を具えている。
生来的な徳ならば、それは子供にも獣類にも見出だされるのであるが、知性を欠いてはそれらそれらはかえって明らかに有害であるように思われる。
勝義の徳というものは、知慮の欠けているかぎり生れないものなのである※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.286-p287). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.
知慮は人間にとってのもろもろの正しきことがら・うるわしきことがら・善きことがらをその対象とするものではある。
※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.281). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.
※勝義(しょうぎ)=その言葉の本質的な意味。
アリストテレスの言う徳とは、我々は生来的に正しくあるべきとか、勇敢であるとか、良い性質を持っているので、それを進歩させることを言っていると思う。
私の解釈では、まずは知慮が必要になる。
知慮とは正しく、うるわしく、善く生きるという道徳心に近い概念だ。
つまり、仕事ができるとか、頭が良い、運動ができるという素晴らしい能力も、道徳心がないと徳とは言えないことを意味している。
むしろ、道徳心がないと、それらの能力が有害になることも示している。
従って、立派な生き方をしよう、誠実に生きようと、自分に言いきかせることにより、自分の持っている能力が有用なものになる。
徳とは、知慮と生来の自分の持つ能力や資質を合わせたものだと思う。
私は自分の能力を進歩させるだけでなく、どうすれば善く生きる、立派に生きられるかを常に考えようと思う。
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