
世上、しかしながら、何よりも自己一身についての知慮というものこそ知慮なのだという考えが、行なわれており、こうしたものが「知慮」という汎通的な名称を獲るにいたっている。ほんとうはしかし、或る種の知慮は家政(オイコノミア)であるし、また或る種の知慮は立法(ノモテシア)とか政治のそれ(ポリティケー)なのであって、政治の場合にはさらにそこに、評議のそれ(ブーレウティケー)と司法(ディカスティケー)が含まれている。
※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.268). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.
※自己一身(じこいっしん)=自分自身
※知慮(ちりょ)=賢さ。先の事、細かい事まで見通す知恵
アリストテレスは自分自身を知ることが、賢さや重要なこと言われているが、本当は家政、立法、政治、評議、司法も考えることが大切ということを言っている。
私は自分の仕事に没頭してしまうと、自分の生活以外に興味がなくなってしまうことがある。
社会への関心も少なくなり、選挙に行くことが面倒になり、社会問題に気を向けなくなることがある。
極端に言えば、仕事をして稼ぎ、娯楽を楽しみ、家族で過ごし、友人達と楽しく過ごせれば良いと思うこともある。
しかし、知慮(ちりょ)というのは、社会についてもよく考えて、自分のできる範囲の参加もすべきだという意見は正しいと思う。
例えば、よい大人が自分の仕事だけして、あとは娯楽だけを楽しみ、政治や司法に一切興味を持たないことは、正しい生き方なのか。
私はそれらに興味を持つ生き方の方が優れた生き方だと思う。
社会を良くしていく気持ちを持ち、子供の世代に良い社会を受け渡せるようにする気持ちを持たないといけないと思う。
仮に自分が社会に影響力がないことに無力感を感じても、あきらめてはいけない。
自分が何か社会にできることがあるはずだ。
その気持ちは常に持っていきたい。
そして、家政、立法、政治、司法に興味を持ち、自分なりの意見を言えるようにしたい。
そして、友人達とそのことで議論してみよう。
政治や社会に無関心になるとは、自分の知慮をなくすことなのだと思う。
さあ、明日も仕事だ。社会に関心を持ちながら、一生懸命働こう。