
君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。(他に沢山ある。それを発揮せよ)たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと。
こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとか、いい逃れするわけにはいかないのだ。
※自省録 マルクス・アウレーリウス 神谷美恵子 訳 岩波書店
古典を読んでいるうちに、"徳"とは何かを自分なりに解釈しようと思った。
恐らく、明確な答えはなく、人により捉え方が違う。
そのため、自分で答えを出していかなければならない。
今の自分の考えでは、自分の持っている心の構成要素が複数あり、それらが、一般的に考えて、良い状態の時を“徳“と言うのではないかと思う。
例えば、自分の心の構成要素の中で、"誠実な心"は良い状態だと思う。
“誠実さが欠ける“時は、良くない状態だ。
そして、謹厳(きんげん)【慎み深さ】も好ましい、心の状態だ。
同じように、様々な心の構成要素があり、その要素の良さが、悪さよりも多ければ、"徳のある人"に思える。
しかし、いくつかの心の良い要素があっても、悪い要素が目立つと、良い要素が消されてしまうと思う。
例えば、仕事で大きな成果をあげ、社会的に成功し、お金持ちになった人は、仕事の技術や頭の鋭さ、勤勉さや気配りなど、心の構成要素は良い状態だと思う。しかし、その人物が、自分が成功しているからと言って、他者を見下したり、馬鹿にすると、謹厳(きんげん)【慎み深さ】という心の構成要素がとても悪い状態になってしまう。
そのような人物を“徳がある人“とは恐らく呼ばない。
つまり、ひとつでも心の構成要素で、とても悪質なものがあると、他の要素が台無しになってしまうのではないか。
全ての心の構成要素に十分注意が必要だ。
気をつけて、自分の心の構成要素を少しでも良くしたい。
明日も仕事だ。頑張ろう。