2025-08-01から1ヶ月間の記事一覧
われわれは、徳というものを、いまいちど考察にのぼさなくてはならぬ。勝義の徳(アレテー・キュリア)に対する生来的な徳(アレテー・フュシケー)の関係がすなわちそれである。われわれは生れながらにして、たとえば正しくあるとか節制的であるとか勇敢で…
「情理」や「ものわかり」や「直知」を有するにいたるのは自然本性によるものだと考えられるのである。かくかくの年齢になればヌース(ものを見る眼)もできるし、情理も心得る心得るようになると考える経験を積んだ年輩者や知慮あるひとびとの主張や見解に…
「同情に富んだ」とか「情理のある」とかいう場合のいわゆる情理(グノーメー)とは、「宜」(エピエイケス)がどこに存するかについてのただしい判断力を意味する。その証拠に、われわれは、「宜しきひと」(エピエイケース)とは何よりも同情に富んだひと…
世上、しかしながら、何よりも自己一身についての知慮というものこそ知慮なのだという考えが、行なわれており、こうしたものが「知慮」という汎通的な名称を獲るにいたっている。ほんとうはしかし、或る種の知慮は家政(オイコノミア)であるし、また或る種…
その「真を認識」せしめるような魂の「状態」、それがこれら両部分の卓越性ないしは徳(アレテー)にほかならない。※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.253). 株式会社 岩波書店. Kindle 版. 私は深く悩んで、熟慮した若者の判断…
あらゆる制作者は何ものかのために作る。すなわち、われわれの制作するところのものは無条件的な意味における目的ではない。われわれの実践の成就するところのものは、目的そのものたる位置にある。すなわち、「立派にやるということ」(エウプラクシア)が…
われわれの魂において、われわれの実践や真理認識をつかさどるものに三あり、感覚(アイステーシス)・知性(ヌース)・欲求(オレクシス)がすなわちそれである。獣類は感覚を持ってはいても実践にあずからない知性における肯定と否定に対応するものとして…
われわれは、かくして、これらそれぞれの部分の最善の「状態(ヘクシス)」の何たるかを把握しなくてはならぬ。最善の「状態」が、すなわち、それぞれの部分の「卓越性」「徳」(アレアレテー)なのだからである※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学…
ひとは「中」を選ぶべきであって、過超も不足もともによろしからぬこと鍛錬の度合いは過多であっても過少であってもならぬ、それは中であるべきであって、ただしきことわりに従うもの※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.248). 株…
選択に基づいて正しく行為するとき、それは正しい人間なのである。みずからすすんでそれをなすのであっても、単にそれだけであれば、これは正しく行為したというにとどまる。※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫). 株式会社 岩波書店.…
国の維持されてゆくのは比例的な仕方でお互いの間に「応報」の行なわれることよってなのである。けだし、ひとびとはあしきことがらに対しては、やはりあしき仕方で応じようとする。然らざればそれは奴隷的な態度だと考えられている。また、よきことがらに対…
「正」とは、これもやはり一種の「均等」そして「不正」は「不均等」われわれは「均等」ということが「正」であるとなしているのである。かくて匡正的(きょうせいてき)な「正」とは、利得と損失との「中」でなくてはならない。※高田 三郎. アリストテレス ニ…
あらゆる徳のうちで、正義のみは「他者のものなる善」だとも考えられている。正しいひとは、支配者や共同体の他の属員にとっての功益あることがらを行なうひとなのだからである。かくして、最もよきひととは、その徳を自己に対してはたらかせるひとではなく…
羞恥を一つの徳として取扱うことは適切でない。この年齢のひとびと(若者)は情念によって生きているため多くの過ちを犯すのであるが、羞恥によってそれが妨げられているのだからして、彼らは羞恥的であることを必要とすると思われる。しかし、年輩のひとが恥…
野暮なひとにいたっては、この種の交際には役に立たない。彼はまったくそれに寄与するところがなく、あらゆることがらに対して腹を立てるのである。休養や遊びは、しかしながら、人生において必須なものであると考えられる。※高田 三郎. アリストテレス ニコ…
放埒なひとはあらゆる快適なものを、または最も快適なものを欲するそしてそのゆえに彼は、快適なものを逸しても苦痛を感ずるし、その欲情に促されることにも苦痛を感ずる。事実、欲情は苦痛を伴う。快楽のゆえに苦痛を感ずるということは不条理なように思わ…
その固有の卓越性に即しての活動が、究極的な幸福たるのでなくてはならぬ。それが観照的な活動にほかならないことは既に述べられた。※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 下 (岩波文庫) (p.205). 株式会社 岩波書店. Kindle 版. 私は観照的な活動は…
われわれの現在の論究は、他のそれのように純粋な観照的考究(テオーリア)を目的とするものではないがゆえに、(すなわち、われわれは徳の何たるかを知ることを目的としてではなく、われわれがよきひととなることを目的としてこの考察を行なっているのであ…
卓越性(徳)という「状態」はそれが存在していながら少しも善を結果しないことも可能であるが - たとえば眠っている場合とかその他何らかの仕方でひとがそれを働かせなかった場合 すなわち、卓越性(徳)に基づく活動が存在する場合にあっては、ひとは働いてい…
無抑制的なひとにとってと同じく、知識は無益におわる。ただ、ことわり(ロゴス)に即して欲求し行為するごときひとびとにとってのみ、これらのことがらに関して知識することははなはだ有益であるだろう。 ※高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (…
ひとは、また、それぞれ、自分の知っていることがらについてはすぐれた判断をすることができ、それについてのよき判断者である。 高田 三郎. アリストテレス ニコマコス倫理学 上 (岩波文庫) (p.27). 株式会社 岩波書店. Kindle 版. 私は自分の社会人として…
進歩した人であることのしるし。その人はだれをも咎めず、だれをも褒めず、だれをも非難せず、自分のことをちょっとした人物であるかのように、あるいはなにか大事なことを知っているかのように話すことはけっしてない。なにかのことで邪魔されたり、妨げら…